パチンコの歴史 遊技機 CR機導入以降の急成長と規制による遊技人口の減少 ラクジョブインタビュー1 株式会社アカギ松岡社長

この記事は最前線で働いている人に業界の動向をお聞きしたインタビューをまとめたものです。登場頂くのは遊技機業界で企画をメインにやられている株式会社アカギ、代表取締役松岡様です。全5回に分けてお送りします。今回はその第1回目「パチンコ業界の歴史について」を語っていただきました。

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img_3215株式会社アカギについて

ビ・ハイア大下:本日はよろしくお願いいたします。初めに松岡様とアカギ様のことを知らない人に向けて簡単な自己紹介からお願い出来ますでしょうか?

アカギ松岡:大一商会(愛知県北名古屋市に本社を構える日本のパチンコメーカー)で企画担当を11年間やった後、独立しました。独立をしてから2017年3月で5期を終え、パチンコ遊技機専門の企画をメインでやっています。パチンコに絞っている理由は、回胴式は制作未経験だからです。しっかりと提案出来るか分かりませんし、メーカー様が求めるクオリティを出せない可能性があります。ユーザーとして打ちますので色々アイデアは思い付きますが、回胴の楽しませ方はまた種類が違うのと規則も違うので畑違いということで手は出しておりません。という経緯があり、回胴はやらずパチンコ一本、完全特化でやっております。

pachiパチンコの歴史について

ビ・ハイア大下:早速ですが、松岡さんはお仕事やユーザーとして昔から業界に親しまれていると思いますので人気の台や業界の歴史、変遷についてお聞き出来ますでしょうか?現在は若干の衰退傾向ですが、いつくらいがピークだったのかなどを教えて頂ければと思います。

アカギ松岡:一番お客さんがいた時期から言いますと『CR機』導入のタイミングです。3分の1、2回ループものです。代表作で言いますと『CR大工の源さん』(三洋物産)です。それ以前は確率変動が少なめでした。行政との絡みでCRユニットを導入することで確率変動を認可、という流れがあったそうです。この当時はまだ私自身中学生でしたが、普通に打ちに行っていました。3,000万人くらいのパチンコ人口に対して、日本人口が1.2億人ですので約4分の1です。通う頻度はそれぞれですが、パチンコ人口に関してはこの数値が弾き出されており、この時代がMAX期でした。それからパチンコ人口は年々下がり続けております。

ビ・ハイア大下:その当時、パチンコ屋さんはいつ行っても大繁盛、という感じだったのですか?

アカギ松岡:そうです。凄く面白いくらい一杯でした。朝はどのパチンコ屋さんも列が出来ており、時間が来たら血相を変えてダッシュをし、台を取りに行ってました(笑)

ビ・ハイア大下:笑。

アカギ松岡:ただ、射幸性はこの時よりも実は少し前の方が高いです。今現在は、MAX機が撤去、継続率も65%と抑えられましたが、2004年当時は継続率に上限はありませんでした。3分の1、2回ループは平均連チャン数ですと4.75回ですので、例えば80%ループ機の方が連チャン数としては上回ります。ただ、その当時は大当りが2回付いてくる、というのが夢を感じられたこと、そしてバブル期だったことが要因だったと思います。

ビ・ハイア大下:お客さんも若い人は相当いたのですか?

アカギ松岡:多かったと思います。それこそ1993年ですので今から20年前、高校生、大学生で嵌っていた人間が、丁度自分くらいの年齢の人たちは皆打っていました。大学に行かずパチンコ屋に並ぶ(笑)

ビ・ハイア大下:笑。

社会に受け入れられていたパチンコ

アカギ松岡:その時は色々な種類の機械がコーナー化されていました。羽根モノ、現金機、一発台などお財布や趣味嗜好に合わせて「今日は何を打とうかな?」と選べる時代でした。現在でも『CR天下一閃』(大一商会)などの一発機をメーカーさんは出していますが、そこに対する需要が少なめです。

パチンコの最初は普通機と呼ばれるチューリップ台、ある部分に入ったらジャラジャラと出てくるタイプ、現在だとA-gonさんが出している手打ちパチンコです。そこから羽根→デジタル化へと変わっていきました。図柄が揃ったら当たり。液晶になり、3分の1、2回ループという射幸性が付き、プレイヤーとしても誰でも見て分かる時期に合わせて、バブル期が重なり大フィーバーです。バブル期ですからみんなお金を持っていますのでパチンコに使うお金を勿体ないと感じることなく「ちょっと遊びに行こう!」という感覚でした。ネットなどもなく遊びが少ない時代でした。パチンコは戦後から普及し、身近になり、どこの駅にもパチンコ屋さんはありました。今現在の様な「パチンコは悪!」ということはなく、漫画などにも背景としてパチンコ屋は出ていました。

ビ・ハイア大下:なるほど。かなり親しまれていた、と。

Businessmen falling downパチンコの衰退

アカギ松岡:親しまれていたからこそ生き残れたのだと思います。全員ではなかったと思いますが、「パチンコ良し!」という割合は今よりも圧倒的に多かったです。そこから3分の1、2回ループでガーッと行き、射幸性や人口が一気に増加しました。行政からも注意が入り、依存症という話もポツポツと出始めたのも丁度この時期でした。その後に2分の1、1回ループという地獄の時代です。「しばらく大人しくしとけ!」みたいな。

ビ・ハイア大下:ちなみに何年くらいでしょうか?

アカギ松岡:2分の1、1回ループは2004年の風営法改正で撤廃されたので結構長かったと思います。ですので、8~9年だと思います。

ビ・ハイア大下:本当に長いですね。3分の1、2回ループはどれくらいでしたか?

アカギ松岡:約3年だと思います。自分が入社した時に2分の1、1回ループを作っており、最後にやったのが『CRピンクレディ』(大一商会)、ゼロヨンの法改正1発目が『CRF大ヤマト2ZX』(三共)500分の1、そして2発目が私たちの作っていた『CRおそ松くん』(大一商会)を皮切りに各種出始めました。エヴァンゲリオンもこのタイミングです。そこから今の時代に突入です。この間お客さんは減り続けています。2分の1、1回ループは今の法よりも厳しいですが、お客さんは現在よりも倍はいました。この20年間の落差は3分の1です。

ビ・ハイア大下:人口は増えているのにユーザーが減少は寂しいですね。

アカギ松岡:500分の1の法になり射幸性があり過ぎるということで400に変更です。これは法改正ではなく組合で縛った形です。風営法で許可が出ているにも関わらず組合から「変更してください」だったら何の為の法律なの?という話です。現在の縛りもほとんどが内規です。

ビ・ハイア大下:内規ということは守らないと罰則がある、という訳ではないですよね?

アカギ松岡:法的な意味ではそうです。とはいえ、組合に加盟しているメーカーが、組合で守るべきルールを破って申請した所で台を売れません。警察は認めませんので売れないものを作っても仕方がないとどこもやらない訳です。『そろそろ法改正はある』と言われていますので、今年はあるかもしれません。

ビ・ハイア大下:その内容は射幸性を上げる様なものではきっとないですよね

アカギ松岡:絶対にないです。むしろ「縛っていこう!」というものだと思います。とはいえ、射幸性は絞りに絞りっていますので大きな部分ではこれ以上は無いかな、と思います。

ビ・ハイア大下:そういう歴史があったのですね。

次回は、スロットの歴史 CT機、AT機、ART機による急激な成長から現在の状況まで 

株式会社アカギ 松岡社長 インタビュー記事の一覧
第1回 CR機導入以降の急成長と規制による遊技人口の減少
第2回 CT機、AT機、ART機による急激な成長から現在の状況まで
第3回 今から遊技機業界に参入する際の課題とポイント
第4回 開発会社の今後の展開
第5回 遊技機業界の展望について

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